研究者として非常に知名度がある野口英世

野口英世とは、明治生まれの日本の細菌学者である。農家の長男として福島県三ツ和村三城潟に生まれ、清作と名づけられた。野口英世は、生後間もない頃に囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負う。

三ツ和小学校に入学した野口英世だが、大やけどを負った障害のある左手では農作業が困難であることから、学問で身を立てるようにと母親から諭され、より勉学に励むのである。

そこで優秀な成績を認められ、教頭のはからいもあって、猪苗代高等小学校に入学する。この時期、野口英世は自らの左手の障害を嘆く作文を書くのである。

それが教師や同級生の同情を誘い、彼の手術費用を集める募金がおこなわれたのだ。会津若松の会陽病院で手術を受けた左手は、不自由ながらも使えるようになった。

完治はしなかったものの、この出来事が野口英世の人生に大きな影響を与えたのである。医学の素晴らしさを知り、医学の道を志すきっかけとなったのだ。

猪苗代高等小学校を卒業後、手術をしてくれたアメリカ帰りの医師である渡部の下で働くようになる。渡部の経営する会陽医院に書生として住み込み、そこで約3年に渡って医学の基礎知識を学んだのである。

医学だけではなく英語やフランス語も学んだ。20歳の時に医術開業試験のために上京した彼は、試験に合格するとさまざまな病院に勤務し、経験を積んだのである。

ちょうどこの間に、名前を清作から英世に改名している。野口英世が渡米するきっかけとなったのは、伝染病研究所に勤務している頃だった。そこで出会ったフレキスナー博士を頼って単身でアメリカへと渡る。

ペンシルベニア大学にて、フレキスナー博士の助手となった彼は蛇毒の研究が高く評価される。そのことで奨学金を得ると、今度はデンマークの国立血清研究所に留学するのである。

留学を終えるとニューヨークにあるロックフェラー研究所で、所長でもあるフレキスナー博士の一等助手として迎えられた。

その猛烈な研究ぶりから、日本人はいつ寝るのだろうか、と言われたほどだ。野口英世はこの地で、のちに結婚し妻となるメアリーと出会っている。

蛇毒のスピロヘーターの研究に成功した英世は、ヨーロッパ各地で講演旅行をし、国々で勲章が贈られている。38歳、39歳、44歳の時にはノーベル賞候補ともなった。

また年老いた母親と再会するために15年ぶりに日本に帰国している。その後、ワクチンのない黄熱病の病原体発見のためにエクアドルへと派遣される。しかし51歳の時に、自らも黄熱病にかかり亡くなったのである。